甘酒の歴史:神への捧げ物から夏の風物詩、そして現代の健康飲料へ

甘酒の歴史:神への捧げ物から夏の風物詩、そして現代の健康飲料へ

甘酒は、日本古来の伝統的な飲み物として知られています。
その歴史は古く、古墳時代まで遡ると言われています。
今回は、甘酒の歴史を紐解きながら、
その変遷と現代における役割について探っていきたいと思います。

古代における甘酒

甘酒の存在が歴史書に示されたのは、
奈良時代に編纂された『日本書紀』からです。
この中に甘酒のルーツといわれてきたものが2つ登場します。

  • 天甜酒(あまのたむざけ): 日本神話に登場する女神「木花咲耶姫」(コノハナサクヤヒメ)が子を成したことを祝って醸したお酒
  • 醴酒(こさけ): 応神天皇(300年頃)が吉野(奈良県)に行幸した際に献上された

また、奈良時代の歌人・山上憶良が詠んだ「貧窮問答歌」には、
酒粕をお湯に溶いた「糟湯酒」(かすゆざけ)が登場します。
寒い夜、糟湯酒を飲んで暖をとる庶民のわびしさが
しみじみと描き出されています。

平安時代〜室町時代

平安時代、『延喜式』(927年)の中に、
宮中の酒造りを担当する部署「造酒司(みきのつかさ)」にて、
醴酒は米と麹、酒で仕込む酒で
旧暦6月から7月末(現在の6月下旬から9月上旬)の夏季に
毎日献上していたという記述が残されています。

鎌倉時代、初期までに成立した国語辞書
『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』には、
アの項に「醴(アマサケ)」という記載が残されています。

室町時代には、宮中に仕える女官たちが毎日書き残した
『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』(1477~1826年が現存)には、
甘酒を意味する甘九献、甘九文字が登場します。

江戸時代

江戸時代に入る直前にあたる1597年(慶長2年)、
「易林本節用集(えきりんぼんせつようしゅう)」という国語辞書に、
ついに馴染み深い「甘酒(アマザケ)」という表記が初めて登場し、
「醴」と「甘酒」は同じであると記載されています。
現在確認できている中で、これが「甘酒」という文字が初めて出てきた文献です。

泰平の時代が始まると庶民文化が花開き、
『料理物語』(1643年)や
『合類日用料理抄(ごうるいにちようりょうりしょう)』(1689年)には、
麹と水を使った製法が紹介され、かつては高級品だった甘酒が、
庶民の食卓にも並び始めた様子がうかがえます。

江戸時代中期になると、
図解入り百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(1712年)にも
甘酒の図版が登場。
蒸米、米麹、水を用いた製法が紹介され、
粒が苦手な人には漉して飲むことを勧められています。

さらに、毎年6月1日には昔と変わらず天皇への献上が行われていたこと、
祭りの御神酒としても広く用いられていたことが記されています。

このように、江戸時代中期には、甘酒は単なる飲み物ではなく、
庶民にとっての栄養ドリンクとして定着していったことがわかります。

そして、大きな変化として、
江戸時代前期までは夏の飲み物としてとらえられていた甘酒が、
江戸時代中期にはおもに冬に売られるようになっていったことが
文献からみることができます。

江戸時代後期、江戸の街には甘酒屋や甘酒売りが増え、
冬の季語だった甘酒は夏も飲まれるようになりました。
1814年(文化11年)の随筆「塵塚談」や1822年(文政5年)の「明和誌」には、
四季を通じて甘酒が販売されていた様子が記されています。

ところが、1867年(慶応3年)に完成した江戸後期の
風俗誌「守貞謾稿」によると、
江戸では四季折々に甘酒が楽しまれた一方、
京都や大阪では夏限定だったことが判明します。

宮中行事の影響を受けた関西では、
平安時代から甘酒は「夏の物」として認識されてきました。
一方、江戸にはそのような風習がなく、
時代とともに甘酒の在り方が変化していったと考えられます。

厳しい暑さの夏、江戸っ子にとって甘酒は欠かせない飲み物でした。
水分、糖分、米由来の栄養素を手軽に補給できる甘酒は、
食欲減退しがちな夏バテ防止にも効果的だったのです。

明治・大正時代

明治時代に入ると、甘酒は庶民の間でさらに広まりました。
当時、甘酒は屋台で販売されるだけでなく、
行商人によって売り歩かれていました。
また、甘酒は栄養価の高い飲み物として認識され、
滋養強壮や疲労回復のために飲まれていました。

昭和時代〜現代

第二次世界大戦(1939~1945年)勃発に伴い、
砂糖は貴重な贅沢品となり、一般家庭での入手は困難になりました。
その代用として奨励されたのが、米や米麹を原料とした甘酒です。
戦時下の食生活を支える重要な役割を担った甘酒は、
単なる飲み物から歴史的な役割を担う存在へと変化しました。

戦後の復興と高度経済成長期(1955~1973年)を迎え、
人々の生活は豊かになりました。1969年(昭和44年)には
「森永製菓」が酒粕と米麹の甘酒を発売し、
1985年(昭和60年)には「大関」が酒粕甘酒を発売。
これらの商品によって、甘酒は全国的に広く流通し、
多くの人々に親しまれるようになりました。

しかし、地方では甘酒を取り巻く状況が変化していました。
1955年から1970年頃にかけて、甘酒祭りの担い手が減少し、
甘酒自体も好んで飲まれなくなってしまったという文献が残されています。
高度経済成長期の食卓における甘酒の役割は、
全国と地方で大きく異なっていたと言えるでしょう。

2011年頃、塩麹や醤油麹などの麹を用いた発酵調味料がブームとなり、
米麹甘酒も注目を集めるようになりました。
米麹甘酒は、酒粕甘酒よりも甘味が控えめで、
栄養価も高い点が特徴です。健康志向の高まりを受け、
米麹甘酒は急速に人気を高め、
2015年から2017年にかけて生産量規模は約11倍にも急成長。
甘酒市場における主流は、酒粕甘酒から米麹甘酒へと移行しました。

2017年以降、米麹甘酒市場は横ばい状態が続いていますが、
これは一過性のブームではなく、定着した人気であることを示しています。
近年では、甘酒をアレンジしたスイーツやドリンクも増え、
若い世代を中心に新たな消費スタイルも生まれています。

日本人とあまざけの長い歴史

甘酒は、長い歴史の中で人々の生活とともに歩んできました。
単なる飲み物にとどまらず、神への捧げ物、夏の風物詩、
栄養ドリンクなど、時代ごとに様々な役割を担ってきました。
そして現代では、健康志向の高まりから再び脚光を浴び、
新たな可能性を広げつつあります。